友人とカフェでランチしました。私よりも人生の先輩で、サラリーマン時代に仕事を通して知り合った間柄です。
また、子どもが同じ大学生という共通点があり、半年に一回程度、お互いの仕事や家族のことなどを話しています。
「今の仕事をベースに工夫し、新しい事をやっていきたい。常に新しい物を求めていたい。」友人はそのような話しをしたと思います。会話の流れの中で、「新しい物を求めるには過去の蓄積が必要。これまで自分がしてきたことをどのように理解しているか。忘却のかなたにいった過去をどう振り返るか。」そんなことが私の脳内を巡りました。
お互い(平均寿命をベースにすれば)人生の折り返し地点を通過しており、これからの人生よりもこれまで過ごしてきた人生が長いので、新しい未来を想像するときに、”自分の過去がどうあったのか。” と考える頻度は20代や30代の若者たちより多いと思っています。
「自分の過去は自分なりに適切に理解していたい。」そのとき強く感じました。
薄っぺらい記憶で過去を見てしまうと、誰でも言えそうな「私が若かった頃は…。」的な会話になるかもしれません。(それは嫌です。)
例えば今から20年後に自分の仕事や生活環境、あるいは社会情勢も含め、上手くいってるのか苦しんでいるのかはわかりません。しかし、どのような状況になっているにせよ、”自分の人生はこうだった、いいことも悪いこともあった。” などといろいろな面で回想して次のステップに進めないと、とても寂しいのだろうなと思うのです。今よりきっと記憶とか回想に弱くなっていて、年月の経過で過去がより長くなっていますから、いろいろなことを思い出したくても、思い出すことさえ忘れているかもしれないのです。
そんなことを考えていたら、ここ数年日々記録しているモレスキンノートが今以上にかけがえのないものに感じるようになりました。ノートを開けばその時が見えます。その時の自分の感情も見えます。それを書いた時からそれがどう変化したのかわかる時もあります。もちろん完璧な再現ではありません。しかし、それすらなくて脳の再現だけで過去を見るのは少し怖さも覚えるのです。自分だけの自分のための記録(記憶)を日々構築していく大切さを感じます。
何年経ってもまた思い出せるよう、書き終えた過去を保管庫に入れます。そして今日も自分のために「今日という日」を残します。